「勘違いするな。貴様を殺すのはこの俺だ」 / やり込み in FF

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俺たちの決着がまだ付いていない!(※付いてます)

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【「勘違いするな」で検索】するとこの人が一番上に出てくるのだが…


 よく、漫画やアニメ作品などで主人公がピンチに陥った際に、かつての敵キャラが現れて「勘違いするな。貴様を殺すのはこの俺だ」などと宣言して仲間になってくれる場合が存在する。これには、果たしてどういう意味が存在するのだろうか?
 …やれ。この手の創作作品では、「敵だったキャラクターが仲間になる」というのは、物語が大きく盛り上がる展開の一つである。ところが、「敵キャラ」というのは味方以上に魅力的に描かなければならないものであり、往々にして強い信念を持って主人公たちに敵対してくる。それが、簡単に味方陣営に寝返ってしまっては、興醒めにも程があるというものだ。だからこそ、主人公に敵意を向けつつも協力してくれるための手として、「助けたわけじゃない。お前を倒すのはこの俺だからな!」という台詞が生まれたのだ。
 ――ちなみに。これを「ツンデレ」と表現する人も居るが、それについてはどうなのだろうか。もし、本当に主人公を憎んでいるのならば、そのままでも負けそうな状況に駆けつける必要は一切無い。形はどうあれ、主人公に好意を抱かなければ、このような台詞は出てくるはずが無いのである。そして、そのような人物は大抵そのままずっと仲間になってくれるため、結局のところは「主人公に興味を持ったが、それを直接的に表現したくない(表現できない)という“照れ隠し”の面が強いのだろう。紛う事なきツンデレです。このあと敵になったのって、某とっくに分かり合ってる人くらいしか知らねえよ…。

 では、こういった“仲間化”の方便としては、「貴様を殺すのはこの俺だ」以外に、果たしてどのようなものがあるのだろうか?
 …まず、最もスタンダードと言えるのが、「戦いを通して主人公と和解し、そのまま行動を共にするパターン」である。創作作品における戦いというのは、お互いの正義と正義を激しくぶつけ合う場面であり、それをもって分かり合うというのは、少年漫画の王道中の王道である。まずここから始めなければ、あらゆる盛り上がりなど理解できるはずも無いのだ。
 ――加えて、よく見るのが「更に大きな敵勢力と戦うため、一時的に手を組む」というパターンである。これは特に、1話完結アニメの劇場版でよく見られるため、「ジャイアン現象」「映画版」などと呼ばれることも多い。アレである。主人公と敵として長い時を過ごしているうちに、奇妙な親近感を感じるようになってきたのであろう。「違う形で出会えていたら仲間になれていたかもしれない」と感慨に浸るのも、これまた定番というものだ。
 その他にも、「戦いの最後に味方陣営に共感して散っていくパターン」「主人公への試練としてあえて戦いを挑むパターン」なども存在する。どれも、敵を立てつつ主人公側も上げ、かつ戦いの最後に不愉快な気分が残らないようにという、制作者の涙ぐましい努力の結晶が現れているのだ。

 ところで。上記のように、創作作品では敵キャラが味方になってくれる場合があるのだが、ならば「現実」ではどうなのだろうか?
 …それは、やはり物語のようには行かないと言わざるを得ない。例えば、いわゆるスポーツ競技などでは、「相手は勝つに値するチームだった。このまま優勝まで行って欲しい」などと発言する場合はあるが、せいぜいそれが関の山である。殴り合いの喧嘩などで、むかし倒した相手が( w∀w)「勘違いするな。貴様を倒すのはこの俺だ!」などと言って加勢してきたところで、(;^o^)「いやお前、俺に負けてるだろ…」と考えることになるのは言うまでもない。そもそも現実世界では、争いを通して得るものが無いので…。
 ――というわけで。俺の生活範囲内では、特にその例を見つけることはできなかった。ならばと世界に目を向けてみると…あったのである。これ以上無いほどに「勘違いするな。貴様を殺すのはこの俺だ」を体現した例が!! ただし、さすがにそれは歴史ロマンと言うべきか、はたまた「事実は小説より奇なり」と言うべきか。現実は、我々の想像を遙かに超えていたのである。
 それではご覧いただこう。これが、現実世界における「勘違いするな。貴様を殺すのはこの俺だ」の正しい使用例である…!!



1945年8月










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