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「大学時代」の思い出 / やり込みinFF

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管理人の日記
もうそろそろ、まとめてしまっても良いのかなと思いました。

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2016年2月19日(金)
「大学時代」の思い出
 
もう10年近くも昔の話です


 もうそろそろ、書いてしまっても良いだろう。本日のお題は、「『大学時代』の思い出」というものである。
 …さて。こんな題名を付けると、多くの皆さまは「サークルで青春してたー」とか「研究がやりがいあったー」とか、そういうリア充な大学生活のことを想像されるだろう。はたまた、ひょっとすると「私は大学時代の部活動を通して、リーダーシップの重要性を学びました。そもそもリーダーシップとは…」などという、吐き気を催す憎悪のほうを連想されるかもしれない。
 ――しかしながら、俺が「大学時代」と耳にして思い浮かべるのは、それらとは全く性質を異にするものである。平たく言ってしまえば、俺にとって大学時代とは人生で最も挫折を味わった時期であった。それを正しく評価しておかなければ、これから新しい時代へと足を進めていくことはできない。だからこそ、俺はこの時期に、あえて自分にとって“嫌な思い出”である「大学時代」というものを振り返ってみることにしたのだ。というわけで、本日の日記はいつもとはかなり雰囲気が異なるのだが、それもまた管理人が持つ一面ということで、お暇なら読んでいただけると幸いである…。

 まず。俺が通っていた大学とは、これはもう隠しても仕方無いので言うのだが、東京都に存在する「東京大学」である。やれ、世に似たような名前の大学はたくさんあるのだが、俺は正真正銘の「東大生」だったのだ。嘘かと思うかも知れないが、これでも高校時代はそれなりに勉強を頑張っており、持ち前の奇跡的な運の良さもあって、なんとか入学試験に合格することに成功していたのである。
 …まったく。これを聞いた皆さまは、(*・∀・)「凄い! さすが長寿やり込みサイトの管理人さん、ただ者ではないと思ってたんだよ!」と評価するか、はたまた(;・∀・)「なんだ、また管理人の自虐風自慢かよ…うぜえ…」と考えるか、その真っ二つに分かれることであろう。その反応は、どちらもまったく正しいものだ。俺もこれまで、例えば職場などで、そういう反応を山ほど目にしてきたものなのである。
 ――が。俺の実際の「大学生活」は、そういった“人に崇められたり、羨ましがられるようなもの”とは全くの正反対である。それは、自分の価値観を粉々に打ち砕かれ、「優秀」だと信じてきた自分が何もできない小者だとだと知らしめさせられるような、まさに「人生最悪」と呼ぶべき時間だったのだ。

成功するのは努力し続けている人だけ。大学に入って終わりの人間はそこで終わりです


 では。あまり触れたくないのだが、もう少し具体的に、「俺の大学時代」というものに対して踏み行っていくことにしよう。まず、その概要を述べておく。それは、やりたいことを見付けられず、優秀だと信じてきた自分の価値観が全て打ち砕かれ、学問においても人間関係においても完全に失敗し、ダラダラ2回も留年して、“6年間”ひたすらに親の金を使って怠惰を極め、最後の就職活動ですら上手く行かず、堕落の限りを尽くしていたというものである。そして、それらの問題点を自分で理解していながら、全く直すことができなかったのだ。これを「失敗」と呼ばずして何と形容すべきだというのだろうか。
 …まったく。昔話となるが、高校時代の俺は、辛い受験勉強の中で、「大学に入ればバラ色の生活が待っている」と考えるようになっていった。それは恐らく、苦しい毎日を誤魔化すために、多くの人がそう「思い込もう」としているだろうし、そう「思い込ませよう」としていることだろう。
 ――しかしながら、もう今さら言うまでも無いことであるが、成功しているのは、あらゆる場面において努力をし続けている人のみである。どれだけ名の知れた大学(もちろん企業でも業界でも)であろうと、そこに入れただけで残りの人生全てが幸せなどというのは、どだい有り得る話では無い。「大学に入れば終わり」と考えているような人間は、文字通り「大学に入れば終わり」となってしまうのである。私だ。

 しかしながら、高校時代の俺は、そんな「良い大学に入れば人生は幸せ」という考え方にコロっと“騙されて”しまい、自分で考えることを放棄してしまっていた。だから、そんな俺が大学時代になって自分を見失ったことは、至極当然と言うしかないのである。もちろん、そんな自分の有り方に疑問を覚えて足掻いていた時もあったのだが、やがては全てを諦めてしまい、「名門大学の生徒」という立場に甘えて、後はひたすら怠惰を貪るようになってしまった。
 …ちなみに、俺は社会に出てからも、この出身大学の話には苦しめられている。皆さまには分かるだろうか。こんな自分にとって「失敗」と理解するしか無いものを、(*・∀・)「凄い、頭良いんだね! 立派だよ!!」と掘り返される気持ちを。また、自分から誇ることなど一切していないのに、(;・∀・)「名門大学卒なのにこんなことしかできねえのかよ…」となじられる気持ちを。酷い時には、名前すら言われずに( w∀w)「東大!」と呼ばれることさえあった。俺にとって“出身大学”というものは、別に自分の適性や趣味・能力を表しているものではなく、過去の努力を評価してくれるようなものでもない、ただの「嫌な思い出」である。だから他の人がどう考えようと、俺にとって大学時代を想起させるような表現は、不快でしか有り得ないのだ。もっとも、ポエミィな書き方をすると、それが大学時代にサボっていた俺に与えられる「罰」だと言うのなら、受け入れなければならないのだろうが…。
 ――やれ、「東大卒」というと、“卒業証書を額縁に入れて一生の誇りにしているような人”をイメージされるかもしれないが、そういう人ばかりでは無いのである。というか、俺の場合をもっとストレートに言うと、東大工学部では卒業をすると「学位記」というハードカバーの紙ペラを押し付けられるのだが、俺は卒業式には出られなかった(もちろん物理的に可能であっても一切出る気は無かったが)ため、後日郵送ということになったらしい。そして、就職後初めての休暇で実家に帰った際、わざわざその学位記が自室の机に飾ってあったのを見かけた時には、胃液が丸ごと逆流してきたかのような凄まじい気持ち悪さを感じ、手足が痺れるまでぐちゃぐちゃに叩き潰したあげく、焼却炉で燃やして完全処分してしまった。まったく正気の沙汰では無いと思われる方が大半だろうが、それくらい俺にとって「大学生活」というのは嫌なものだったのである。

 さて。時系列が前後して申し訳無いのだが、何はともあれ大学生活の時間軸へと戻ろう。そんなダラけた人生も永遠に続くわけではなく、俺は大学時代最後の「就職活動」に挑むことになったのである。当時の俺は、自分のいま現在の状況のことなど全く考えず、(*^o^)「腐っても名門大学なのだから、就職くらい楽勝だろう!」と考えていたものだった。なんともまあ、救いようのない愚かさだ…。
 …というわけで、そのように社会を甘く見ていた俺は、当然の末路として、全く内定を得られずに空虚な時間を過ごしていくことになったのである。やれ、経験がある人には分かるだろうが、「就活」とは残忍な物で、何件・何十件と志望に落ち続けると、自分の人生全てが否定されたような暗黒面へと着実に歩んでいってしまう。俺は今でも、あの時代のことは思い出したくないものだ…。
 ――ちなみに。最終的には、俺はとある縁によって、何とか年明けくらいに就職を決めることができ、「ニート」というこの世界の底辺だけは無事に回避することができた。その“会社”に関しては、詳しく話すと長くなるのでまた別件ということにしたいが、3年間大変お世話になった場所で、俺にとっては「故郷」や、それこそ「母校」とでも呼ぶべき存在である。だから、本来なら転職などする必要は無かったのだろうがね…。

努力が叶うことは少ないが全くの無駄になることも少ない


 というわけで。俺にとっての大学生活は、世間の皆さまが想像されるであろうものとは大きく異なるものであったが、どんなに酷い“クソゲー”であったとしても必ず良い点というものは存在する。最後に、それについて触れていくことにしよう。
 …まずは、いま現在ゲームやPC関連で使っている技術のほとんどは、大学時代に身に着けたものだということがある。まあ、「技術」と呼ぶほどのものではないのかもしれないが、こういう一人でも楽しめる手段を覚えられたということは、自分の人生において非常にプラスであったように思う。
 ――また、大学に合格するために行った「勉強」というものについても、確かに自分の人生に資するものであったと思う。俺は、大学時代自体は失敗だと思っているが、そのための勉強で覚えたことに関しては無駄だとは思っていない。むしろそれは、10年が経った今となっても様々な試験などで役立つほか、「勉強する姿勢」ということ自体が有用であり、またそれ以外の実生活においても自分の価値観を広げることに大いに役立っていると思う。やれ、現役学生の皆さまにとっては「将来のために勉強をしておけ」という言葉は全く理解ができないと思うが、俺から言わせればこれくらい潰しの利くスキルは他に無いので、もしいま何もやるべきことを見付けられないのであれば、とりあえずは「勉強」をしておけば良いというものだろう。やれ、「努力」が完全に理想通りの形で報われることは少ないのだが、それと同じくらい「努力」が全くの無駄に終わってしまうことも少ない。何か行動をしておけば、それはきっと後の人生へと繋がってくる。少なくとも、考えるだけで何も行動しないよりは絶対に良いのである。
 最後に。俺が大学生活を通して出会った人たちのことは、今でも忘れることができない最高の友だと思っている。ただ、上記の通り俺にとっての大学生活はご察しであったため、もっと彼らにも良いものが見せられていたのではないかという気持ちも大きい。あの当時から俺が少しだけでも大人だったら、間違いなくこの人生は異なる形になっていたことだろう。そう思うと、まったく後悔するしか無いというものだな…。

 そんなわけで。俺にとっての大学生活は完全なる失敗であり、今でも「嫌な思い出」と呼ぶしか無い。しかしながら、「それを目指した努力」「そこで確立できた価値観」は自分にとって無意味なものではなく、その「失敗」も社会人編・前編の3年間を通してギリギリ軌道修正できたように思う。だからこそ俺は、卒業から3年が経って、やっと「自分にとっての大学生活」というものに整理を付けることができたのだ。やれ、「総合的には入って良かった」などという有り触れた無責任で表現できるようなものではとても無いが、少なくとも自分の人生においては、「大学時代」は無意味でなかったように思う。
 …ところで。この話を聞いて、管理人のことを少しでも「偉い」と思うような人がいたら、それはとてつもない勘違いである。このような思考には大学時代に至れていて当たり前であり、今さら俺が自分の能力・適性を活かして生きていこうと決意したところで、6年間サボり続けた罪が消えるわけではない。つまるところ、大学時代を真っ当に過ごし、今も真面目に働いている同級生たちのほうが遙かに「偉い」のだ。本文中では、俺は自分のことを“かわいそうな被害者”であるように書いているが、言うまでもなく全ての結果は因果応報・自業自得である。それは、皆の名誉のためにハッキリさせておきたい。
 ――何はともあれ。俺は最近になって、「自分で失敗だと分かっているのなら、それをできる限り早く直さなければならない」という信念のもと、様々な行動に打って出るようになった。それは間違い無く、大学時代の大失敗から得た教訓である。やれ、合計して5年は遅れてしまったが、やっと俺も当時の同級生たちの精神レベルに達することができた(ように思う)。俺の人生、ここからならば立て直せるし、立て直さねばならぬのだ。

(2016年2月19日) 104 PV

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