管理人の日記 / やり込み in FF

管理人の日記

とぉたる  今日:とぉでぃ 昨日:いぇすたぁでぃ
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今日の話を書こうと思ったとき、すぐこのセリフを思い出した


 かつて、『3』までのプレイステーションを作った久夛良木くたらぎ氏は、1999年に
「ゲーム機の最大のライバルは携帯電話だ。何故なら、人間の最大の娯楽はコミュニケーションだからだ」と語っていたという。また、同じ時期に任天堂の元社長も、「携帯電話が進歩すれば、携帯ゲーム機などは不要になる」と話していた。これらの発言は、「@携帯電話の処理性能がゲーム専用機を上回る」という点以外に、「A通信機能を使った人と人との交流の面白さが、ゲームソフトを上回る」という考えを前提としたものであろう。それでは、果たして現実はどうなのだろうか?
 …まず、@の
現行の携帯電話の処理性能は、既存のゲーム専用携帯機を大きく上回り、少なくとも性能面においては、「携帯ゲーム機などは不要になる」という予言は的中したと言えよう。物理ボタンなどの存在から、完全に携帯電話がゲーム専用機の上位互換とは言えないものの、もはや市場としての魅力は雲泥の差であり、アウトプットされるゲームの質も専用機のほうが下回るという本末転倒な感じになっている。だから、今後もしプレイステーションの次世代携帯機が出るとしても、据え置き機か携帯電話のコバンザメのような存在になるしか無いであろう。
 ――しかしながら。Aの、
「人間同士のコミュニケーションが最大の娯楽であるから、携帯ゲーム機は時代遅れである」という考えには、議論の余地がある。もちろんこれに関しても、現在の社会において、電車で・歩きながら・授業中にも忙しく携帯電話を触っている人のことを考えると、的中していると言えるかもしれない。だが、私の考えを述べると、「人間同士の不快で面倒なコミュニケーションよりも、作品性の高いゲームソフトのほうが遥かに娯楽として優れている」と思うのである。これはもちろん、ゲームに限った話では無く、映画でも本でも同じだ。それでは何故、もう20年近くもインターネット世界で生きてきた私が、このような考えに突然至ったのだろうか?

 まず。ここ最近の私は、
人と関わることに疲れ果ててしまった。去年に仕事を辞める前後から精神的に不安定な状態が続いており、特に「人と人との争い」を見るのに極めて強い嫌悪感を覚えるようになった。例えば、以前は好んでテレビのニュースなどを見ていたが、やがて不快な情報しか流れて来ないことに気付き、意図して避けるようになった。また、少し前までは好んで見ていた、いわゆる「まとめサイト」「ネット掲示板」なども、最初は自分と同意見の人が多くて心が落ち着くような思いがしたものの、その仲違いから垣間見える心の汚さや、話題性を作るためにわざと不快感を煽る内容に嫌気が差し、綺麗さっぱり見ないようにした。特に、いわゆる「ゲハ」と「政治」は、徹底的に排除している。これにより、余暇時間でわざわざ自分から不快になることが無くなり、かなり心が安定するようになった。
 …そして、代わりに私の生活に登場をしたのが、オフラインのゲーム・映画・本と言った、
他人と関わらなくて良い娯楽である。特に、「本」に関しては、「ゲームや携帯電話は低俗だが本は高尚である」といった差別的な見方が未だに多くされているが、良くも悪くもメディアの一種であり、私にとっては遊びの一つである。具体的なメリットとしては、古本屋を使えば1冊108円で購入ができ、電気や設備など他の物を使わずに楽しめ、内容も多彩である。こういった、時代遅れのレトロなテクノロジーが、信頼性が高く現代でも通用するという事態は、往々にして起こりうるものだ。

 しかしながら。オフラインゲーム・映画・本にも、必ず製作者というものが存在し、一定の思想の元に作られていることが大半である。ならば、それらの作家性の高い作品を味わうことは、いわば「作家とのコミュニケーション」、つまり人間関係の一つと表現できるかもしれない。しかしながら、いわゆる「まとめサイト」やネット掲示板での有象無象との交流は私に不快感をいだかせ、作家とのコミュニケーションは喜びをもたらす。これらの本質的な差は、恐らくは
「コミュニケーションをする相手の思想が、自分と合っているかどうか」という点に集約できるであろう。
 …やれ、この「コミュニケーション相手の思想」とは、もっと端的な表現をすると
「知的水準」と言っても良いかもしれないが、そうなるとまた「高学歴=高尚」「低学歴=下劣」などという無用な争いに巻き込まれるため、それをあえて「思想」と表記することにする。そして、求める「思想」が、例えば人によっては知的好奇心だったり、人によっては本能的な感情だったりする。なお、ここでは必ずしも「知的=善」「本能=悪」という位置付けにはしないことを触れておきたい。そういう下賤な区分による自己肯定は、私の最も嫌いとするところだ。
 ――よって、これらの事実から、
私の趣向のみについて判断をしてみると、例えばオフラインゲームや映画・本であったとしても、下劣な感情を煽るような低品質の作品では全く意味がない(もっとも、商業作品ではそういうものは落とされるのが大半であるが…)。また、仮にプロで無い一般人同士の交流であっても、興味深い内容について取り扱えるのであれば、直接の会話でもインターネットでも大歓迎である。このホームページも、どちらかと言えば大勢の人が集まる場所というよりは、作家性の高い場所であると言えるだろう。これは、「管理人が作家として優れているか否か」という話ではなく、「個人の思想が色濃く反映され、それを共有できる人との間で楽しむページ」という意味である。

 そういうわけで。まとめると、私はかつて予言されたように「コミュニケーションが人間の最大の娯楽になる」とは思っていない。もちろん、本質的には、人類の娯楽は全て他者との交流であろう。しかし、社会やネットワークを介した不特定多数には、様々な思想の人間がごちゃまぜになっており、自分と異なる思想の人が大多数である。そういった者にわざわざ関わり、自分から疲れにいく必要は無いだろう。だから私は、
コミュニケーションを極限まで縮小し、自分と思想の合うほんの一部の人とのみ付き合うことにしたのである。その顕現が、私にとっては「テレビやインターネットやSNSでの罵り合いを避け、オフラインゲーム・本・映画といった作家性の高い作品を楽しむ」という手段になったのだ。
 …やれ、私は去年、精神的に不安定になって臨床心理士の世話になっていたとき、「アドラー心理学」というものを勧められたことがある。その内容は、
「全ての悩みは人間関係である」という言葉に集約できる。その通りである。コミュニケーションは素晴らしい娯楽となりうるが、それ以上に悩みの種になりやすく、現実には人間関係を過剰摂取オーバードーズしている人がほとんどだ。実際に、私はネットでも現実でも人との関わりをできる限り少なくしてみたが、驚くほどに心が軽くなり、逆に困ったことや苦しむようなことは全く発生しなかった。もちろん、このような後ろ向きの考えは、社会全体にとっては悪影響である。若者が社会問題を自分のものとして捉え、選挙に行ったり、解決のための努力をしなければ、この国の滅びは加速するばかりだ。しかし、そのためにわざわざニュースを見て、下劣な罵り合いで年がら年中不愉快になる義理は存在するのだろうか。私は、この国にそれほどの恩義は感じていないのだ。
 ――やれ。世間は平成も終わる時代になり、「携帯電話」という人間の可能性そのものすら進化させうる機器が登場した。それにも関わらず、人は未だに原始的な感情から来る争いに終始している。恐らく、どれほど電子機器が進歩しても、この傾向は変化しないだろう。私は、そういうものは、もうたくさんだ。21世紀のこの世の娯楽は、旧世代のオフラインゲームや本・映画に逆戻りした。しかしながら、
意外にもそんな毎日は凄く楽しいのだ。だから、「コミュニケーション」に疲れ果てている人は、いったんそれを捨ててみてはいかがだろうか?

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メインシナリオと小ネタ部分の両方が集結した、最高のラストシーンです


 「人生で最高の映画を一つ挙げろ」と言われたら、私は「ターミネーター2」とどちらの名前を出すか悩むかもしれない。本日は、言わずと知れた名作映画:
「タイタニック」の感想記事を書いてみることにしよう。先日、とある機会で視聴をするチャンスがあったのだ。
 …さて。この映画は、その名が示す通り、実在した客船:「タイタニック号」の沈没事故を舞台とした1997年のアメリカ映画であり、上流階級に不満を抱いているヒロイン:「ローズ」と、貧しい絵描き:「ジャック」との悲恋物語を描いている。映画は
明確な2部構成となっており、前半部では少女漫画のようなベタベタのラブストーリーが展開されるが、船が沈没する後半部では一転してパニック映画のような迫力のシーンを楽しむことができる。3時間15分という長丁場であるが、ダレることは一切無いと断言して良いだろう。
 ――ちなみに、皆さまご存じの通り、この映画は1997年に公開されてから、世界中で大ヒットを記録した。船首
(またはそれに似た場所)に立って一人が腕を広げ、もう一人が後ろから手を回して抱きかかえるようなポーズを“タイタニック”と呼ぶことは、映画を見たことのない方でもご存じだろうが、それは当然この映画の中のワンシーンから来ている。また、データー上でも1998年の米アカデミー賞で多数の賞を取ったほか、興行収入でも2009年に同監督の「アバター」に抜かれるまで、全ての映画の中で最高のものを記録するなど、数値面でも“傑作”と言って間違いの無い作品である。

 さて、この映画の最大の魅力は、
「王道の恋愛映画」としても「歴史を記録した渋い映画」としても楽しめるという点である。
 …まず、この作品は、一般に「恋愛映画」として知られている通り、メインシナリオは終始ローズとジャックの恋愛をテーマとして進んでいく。本作で「敵」として登場するローズの婚約者と母親は、貴族としての階級以外何も持っていない分かりやすい「悪役」であり、逆に身分の低いジャックは、外見も内面も極めて魅力的な人物として描かれている。
こんな都合の良い物語は、今や漫画の中にすら存在しないだろう。メインテーマは「恋愛」「人の死」であり、良く言えば「王道」、悪く言えば「陳腐」であるが、FF10の例を見れば分かるように、大衆娯楽映画として考えれば実に適したテーマであると言える。この映画「タイタニック」は、メイン部分だけを見たとしても、良作であると判断することができるだろう。
 ――ただ、私が思うこの映画の真の魅力は、
メイン以外の小ネタ部分である。本作では、ローズやジャックなどの主要人物とその物語こそ架空のものであるが、それ以外の部分ではできる限り史実を再現しようと務められており、例えば船の乗組員などはその大半が実際と同名/同役職で登場するほか、数カットしか映らないような貴族にも実在の人物からエピソードが取られていたりする。もちろん、そのこだわりは映像部分にも注がれており、当時最高峰のCGによって迫力のシーンが作られているほか、セットや小道具でも贅沢な演出が為されている。そういった細やかな部分と、実在したタイタニックとの共通点や違いを調べるのも、この映画の大きな楽しみ方の一つだと言えるだろう。

 というわけで。私は、この映画「タイタニック」
実は断片的にしか見たことが無く、大筋の物語とその結末こそ知っていたものの、通しで視聴したのは今回が初めてであった。そういった中で、特に気に入ったエピソードを幾つか挙げてみることにしよう。
 …まず、映画の序盤に、ローズと婚約者&母親が他の船のスタッフや貴族と食事をする、ちょっとしたシーンがある。食事中、
ヒロインのローズがタバコを吸い始める(当時も女性が喫煙をすることはあまり好まれていなかったらしい)。すると、母親が「タバコは嫌いだ」と言い出すのだが、構わずローズが吸い続けるため、婚約者は勝手にタバコを取り上げて消してしまう。そして、ローズのために料理を勝手に注文するのだが、ローズの機嫌が直ることはない。その後、船のスタッフ(造船会社の社長)が、タイタニック号の偉大さについて自慢をしだすのだが、ローズは「フロイト博士(精神学者、当時まだ存命)はご存じ? 男性が大きさにこだわる理由について面白い分析をなさっているの」と言い捨てて退席をしてしまう。それを聞いた造船会社の社長は、「フロイトとは乗客の誰かか?」とトンチンカンなことを言って、このシーンは終わりである。…まあ、メインである恋愛部分とは一切関係ないと言ってしまえばそれで終わりであるが、要するに「ヒロインのローズとその母親・婚約者は不仲である。また、造船会社の社長は、馬鹿にされたことすら気付いていないほど愚かである」という各キャラクターの位置付けを、直接的な表現にせず語っているのだ。1分半ほどの短い場面ではあるが、台詞回しが印象に残るシーンである。
 ――また、かなり飛ばして、後半部で船の沈没が明確になってからは、ご存じの通り救命ボートの数が足りずに混乱が極まってくるのであるが、その乗り入れ場所で半ば暴徒と化した群衆に向けて、乗組員が拳銃で「騒ぐと撃ち殺すぞ!」と威嚇を行う。…そして、再び丁寧な態度で「女性と子供を優先する」という避難指示を徹底するのであるが、背を向けて弾倉を開けると、
なんと弾は1発も入っていなかった。視聴者が「この人は銃を向けはしたが、最初から人を殺す気は無かったんだな。いい人だ」と安心した次の瞬間、その弾倉に弾を込め始める。恐らく、「最初は人を撃つ気など全く無かったが、パニックを目の当たりにして今後は必要性が出てくるかもしれないと判断し、隠れて弾を装填した」というところであろう。人の、非情になりきれない優しさと冷酷さを同時に表現した、私のお気に入りシーンの一つである。
 …その他にも、このような小ネタは大量に存在し、全て挙げると
それだけでプレイ日誌級の長さになってしまうのでこれで終わるのだが、全般に言えることが、極限状態における人の行動をそのままに描写しているということである。やれ、こういった「死」をテーマとした映画だと、人の精神構造を過度に美化したり、または逆に極端に貶めたりするような場合が多く、特にそういった描写に政治や民族が絡むと腐臭を放って見れたものではなくなるのだが、この映画のメインシナリオはあくまで恋愛(とアクション)であり、その他の小ネタの部分は自由に見ていくことができる。私に関して言うと、こういったパニックの中で、「英雄的な行動を取る」のも、逆に「他者を押しのけてでも生き残ろうとする」のも、どちらも人間の本質であると思っているため、本作の押し付けない描き方は、実に自然に受け取れるものであった。そういった、解釈の幅があることも、本作が名作と呼ばれる理由だろう。

 そんなわけで。話は、この映画を真の名作たらしめている
ラストシーンへと続く。この、映画「タイタニック」の物語は、沈没事故から84年が経った作中時間の1996年から始まり、そこではタイタニック号と共に沈んだとされる宝石を求めてトレジャーハンターたちが集まって、老婆となったローズがそれに同行して過去の回想を始める…という形でスタートする。ところが、その宝石は実はローズが隠し持っていて、あろうことか映画の最後で海へと放り投げてしまう。ちなみに、未公開となった終わり方としては、わざわざ老婆のローズがトレジャーハンターたちの前で宝石を投げ捨てて、「お金なんかよりも大切な価値がある」と説教をするというエンディングもあったそうだが、未公開にして正解だろう。
 …さて、続きである。その沈んでいく宝石と、静かに眠りに就くローズをバックに、映像は海底に沈んだ船の残骸へと移動していく。すると、ローズの宝石に呼応したかのように、船が往時の美しい姿を取り戻していく。そして、タイタニック号の最も豪華な大階段の部屋では、事故で亡くなった人々が当時の姿のままで待っており、そこで若いローズはジャックとの再会を果たす。その様子に、乗組員も貴族も平民も区別なく、皆が笑顔で拍手を送るのであった…。有り得たかもしれない、幸せなラストシーンである。「ローズとジャックの恋愛」というメインシナリオと、「作中で活躍した名脇役が集合」「ついでに壁時計は船が沈んだ午前2時20分」という小ネタ部分の両方が合わさった、まさしく本作に相応しいエンディングだろう。
 ――そんなわけで。
なんか好きなシーンを順番に紹介しただけの取り留めの無い文章となってしまったが、これだけ語らせる作品だと表現することもできる。メインシナリオ良し、枝葉の部分も良し、映像や音声の迫力も良し、難点は唐突に挿入されるエロシーンくらいだろうか。この映画「タイタニック」は、まさに傑作と呼ぶべき作品であり、作り手・受け手に関わらず、娯楽に関わる全ての人に視聴をしてほしい作品である。

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FFはもう終わりですね


 久しぶりにFF関連で良いニュースである。
「糞15不完全版」…もとい、PS4/「ファイナルファンタジー15:ロイヤルエディション」の初週売上が、6814本と発表されたのだ。これまで、シリーズで最も売れなかったのは、あのFF13のXbox360版(マルチではなく、INT版という別タイトル扱いとした場合の初週)約1万本であったため、それすら下回る売上となる。最低のクソゲーが、数値上でも最低だと証明されて、胸の空く思いだ。
 …やれ、世間では未だに「アップデート形式のソフトだからパッケージが売れないのは当たり前」などと惨めな擁護をしている人間も居るが、例えば、同じくアップデート形式だったPS3/「グランツーリスモ5」
(これも大概酷い作品だったが…)は、本編の初週40万本に対して、1年強の後に発売された「Spec II」が約2万本を売り上げている。それに対する比で考えても、糞15不完全版はおよそ5分の1しか売れていない。また、業界全体に目を向けると、あのPS4/「モンスターハンターワールド」が、ダウンロード版も含めて約300万本(国内・累積)というスマッシュヒットを叩き出した直後であり、時期的にはむしろ絶好と言えるタイミングであった。売れなかったのは、純粋に出来と評判が悪かったからである。
 ――ちなみに。私は、「売れなかったからクソゲー」だと主張しているわけではなく、
「クソゲーが売れなかったのだから自業自得」だと言っているのである。実際、発売直後の時期に、糞15本編の初週売上が前作FF13の約半分である70万本と発表された際、仕事の都合で未プレイだった私は、なかなかに同情的な記事を上げている【2016/12/12】。ところが、その2週間後には、自分でプレイをしたうえで、「史上最低のクソゲー」と評価を下した【2016/12/27】。私にとって、世間の評価など関係無い。面白いゲームならば、どれだけ批判されていようと、またどれだけ売れずとも、独自の視点からやり込み続けるつもりであった。そういった熱心なファンを、糞15は裏切ったのである。そして、どうやら今回の不完全版の売上も考えると、新規層の獲得にも無事に失敗をしたようだ。クソゲーがクソゲーらしく扱われていて、実に気持ちが良いものである。

 ちなみに、最近の糞15の流れについても触れておこう。無料アップデートでは、誰が望んでいるのやら、
「車が道路以外も走れるようになりました!」みたいなしょうもない内容が追加され、有料の「シーズンパス」で配信が決定されていたキャラクターエピソードとオンライン対戦アクションも配信が完了したらしい(※興味がないので字面を調べただけ、シーズンパス分もプレイしていない)。そして、“不完全版”…「ロイヤルエディション」のパッケージ発売と同時に、オンラインでも「ロイヤルパック」(有料/2160円)の配信が開始されると告知され、これにてようやく糞15も終わりだと思われた。
 …ところがどっこい。サイコパスみたいな発言ばかりをする開発スタッフから、あろうことか
2019年に掛けて更に4つのエピソードを配信するという狂った発表が為された。ご存じの通り、このゲームの発売日は2016年11月だ。発売から1年経っても未完成と馬鹿にしていたら、まさかの2年が過ぎても開発中だったのである。2年と言えば、例えば「FF13」「FF13-2」「ライトニングリターンズ」の発売間隔が、それぞれ約2年である。それに匹敵する価値を、たかだか後付けのミニエピソードごときで提供しているつもりなのか?
 ――そんなわけで。スタッフたちは、未だに
「満足度62.4%」(   ?   )だとか、「需要があるかどうかより、届けるべき人が居るかどうかが大事」(意味不明、黙れ)などと言っている。これらの発言全てが、ことごとく馬鹿にされているのだが、恐らく馬鹿すぎて気付いていないのだろう。もし本当に「信頼回復」がしたいのならば、まずは発売済みの糞15を全て回収し、完全に1から作り直す必要がある。当然、有料分に関しては全て返金をし、ついでに経過時間も過ぎ去りし時を求めるがごとく最初から無かったことにしなければならない。つまるところ無理なのだ。やるべきことは、「今すぐ全てを破棄する」か、または「ごく僅かの購入者に対して細々と有料コンテンツを販売し続ける」か。恐らくは後者のほうが有益だと判断されているのだろうが、そうしているうちにどんどんブランドイメージは下がっていく。そしてついには、私のような元ファンにすら笑いものにされる存在となってしまった…。

 そんなわけで。
残念ながら、FFはこれで終わりのようである。唯一の希望とされていた「7リメイク」も、今年の6月で発表から3年を迎えるというのに、未だにまとまった情報は何一つとして出ておらず、分作の1作目ですら3〜5年後が目安と言ったところであろう。誰がどう見ても第二の糞15である。もはやPS4の現役中に完結はもちろんとして第1作が間に合うかどうかも微妙になりつつあるが、PS4で出すと言ってソニーに宣伝映像まで作らせたのだから、もしPS4世代で出せないのらば、謝罪をして違約金を払うべきだ。こんな非常識なゲームのために迷惑を掛けられるソニーが不憫でならない。最近では、「クラウド・セフィロスを100年愛されるキャラクターに」などという妄言も飛び出たが、そんなんじゃないだろFFは!!
 ――やれ、皆さまからすると、こんなクソゲーシリーズに未だに執着しているのは、例えるならフラれた相手に恨み言を吐き続けるかのようで、実にみっともなく見えるだろう。
その通りである。もっと面白く、しかもやり込みプレイの対象としても扱えるような素晴らしいゲームを見付けられれば、こんな泥舟にこだわる理由は何一つ無くなる。糞15から、一つだけセリフを引用しよう。「いい加減、切り替えられないのか」…まったくおっしゃる通りだ。こんな想像を絶するクソゲーでも、“見切りを付けさせてくれた”という意味では、少しだけ評価できる点があるのかな。さよなら、ファイナルファンタジー…。

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スマホ版でやりました。実に良かった


 
「逆転裁判」は、カプコンから発売されている推理ゲームのシリーズである。内容は、文字通り「裁判」をテーマとし、主人公の弁護士を操作して被告人を無罪へと導く、というアドベンチャーゲーム(文字を読むゲーム)であり、公式ジャンルは「法廷バトル」とされている。その、「証言」「尋問」し、矛盾点に「証拠品」を突きつけて謎を解いていくというシステムは、後の推理ゲームの多くが類似のシステムを採用するほどの完成度を誇っている。その他、この手のゲームの最重要ポイントである「ストーリー性」はもちろんとして、「演出」「キャラクター」「推理難易度」など、全ての要素がバランス良く出来ており、遊びやすいうえに奥深くなっている。まさしく、「逆転裁判」は、推理ゲーの定番と言える作品だった…。
 …やれ。ここで「だった」と過去形で書いたのは、もちろん
あの『4』の存在があるからである。逆転裁判は、2002年にGBA(ゲームボーイアドバンス)で初作の『1』が発売され、その後に『2』『3』と1年間隔で続編が登場し、その人気を不動のものにしていった。ところが、そこからしばらく空けて、2007年にNDS(初代ニンテンドーDS)で発売された『4』が、とんでもない失敗作であり、しかもあろうことか当時絶頂期だったDSブームが合わさって50万本以上を売り上げてしまい、演出の都合上この作品を無かったことにもできず、シリーズは完全に迷宮入りをしてしまったのである。
 ――まったく。『4』がどれくらい酷い作品だったかは、恐らく当サイトの読者層なら当時直接プレイされたという方も多いだろうが、一言で表すなら
話を読むゲームなのに話がつまらない(犯行のトリック・犯人の動機・謎の明かし方などが崩壊している。当時の感想は【2007/4/25】という感じであり、ゲーム性は著しく低い。また、その不出来さがあまりにも激烈であったため、「『1』〜『3』から世界観を一新するはずが、旧作の人物が出しゃばったせいでストーリーが崩壊した」「現場の声とは別に、『旧作キャラクターを出せ』『当時導入されたばかりであった裁判員制度をゲームで宣伝しろ』という社内政治に翻弄されたせいで駄作になった」という“失敗例”として、今でも「逆転裁判4」の名前が挙げられることもある。「尋問」「証拠品」によって推理ゲー全体に良き判例を示したタイトルが、あっという間に今度は不当判決となってしまったのだ。

 というわけで。恐らく、多くの人のシリーズに対する記憶は、『4』で途絶えており、ひょっとしたら
「『1』〜『3』は名作だったゲーム」くらいの印象で終わっているかもしれない。しかしながら、私から言わせると、今の「逆転裁判シリーズ」が持つ意味は、「駄作を出してしまったが、その不満点に真摯に向き合い続け、最終的には評価を回復させたタイトル」というものになったのである。
 …というのも。2007年に『4』が発売された後は、さすがにあの評判の作品をそのまま続けるのは苦しいと判断されたのか、「逆転検事」などのスピンオフ作品で細々とシリーズが続いてきたが、それで一定の需要を取り戻すことができたのであろう、
2013年に久しぶりの正統続編となる「逆転裁判5」が3DSで発売された。『5』は、物語展開などにそれなりの不満が挙がったものの、『4』のように致命的な破綻は存在せず、また『4』のキャラクターについてもある程度までフォローが為されたことで、「『1』〜『3』には及ばないが、『4』よりは良い」という程度の評価を得ることができた。私も、3DS版(当時は遊戯王のゲームのために購入していた)とスマートフォン版で、おまけシナリオまでを通して2回プレイするほど楽しんだ作品である。
 ――その後、2016年に、更なる続編である『6』が発売された。これに関しては、
当時の私は仕事でまともにゲームをする時間が取れなかったことや、さすがに2016年にもなって3DSで新作はちょっと…という思いがあったため、スマートフォンでのアプリ版が出たらプレイをしようと決めていた。そして、2017年末に、逆転裁判シリーズのアプリ版のセール広告を見て、未プレイだったことを思い出し、2000円で購入をしてプレイを始めたのである。

 さて、そんな
「逆転裁判6」の私の感想はと言うと、『5』に引き続いて『4』の設定を前向きな方向で活かしており、特に最終話の壮大さは、傑作だった『1』〜『3』にも全く引けを取っていない。この作品をもって、『4』〜『6』の三部作が無事に完結したとも表現でき、『4』の悪評価は完全に回復されたと言って良いだろう。
 …具体的には、まず物語は、チベットあたりをモチーフとした架空の「クライン王国」と、従来の日本の法廷が交差する形で行われ、それぞれの特性を活かした個性的な物語が展開される。また、それに伴い、シリーズの新旧キャラが数多く登場するが、ほぼ全ての人物に一定の出番が与えられており、扱いの悪さを感じるようなことは無い。また、前作『5』の不満点として挙げられることが多かった「推理の難易度が低すぎる」「調べるコマンドが自由に使えない」と言った点も、ちゃんと解決が為されている。加えて、3DSでの2作目ということで、グラフィック・演出などの基礎部分もパワーアップしている。そして、上にも書いた最終話に関しては、実質2話分の壮大なストーリーが展開され、次々と明かされる絶望的な真実とそこからの大逆転を味わうことができる。その出来は、
同じく最終話の出来が強烈だった『3』の再来とも言えるものであり、クリア後には強い満足感を味わうことができた。
 ――逆に、不満点と言えば、大きなものとして、全5話の中で
1話と4話の出来が極端に悪いということがある。まず、1話は、証人がいちいち楽器を掻き鳴らしながら喋るため極めて冗長なうえに、悪い意味で難易度が高く、あまり爽快感を得ることができない。当時は、もうここでプレイをやめようかと思ったくらいである。また、裁判パートのみの4話に関しては、冒頭の証言の時点でトリックの大半が分かってしまううえに、明確な疑問点・矛盾点をなかなか指摘することができず、ただただイライラする。しかも、操作キャラクターが「心理カウンセリング」と銘打って、「あなたは○○の感情をいだいていた。これは××だったからじゃないですか!?」机をバンバン叩きながら証人を威圧するという不快な行為をする。それを見た検察側は、「これは悪辣な誘導尋問だ。証人は答える必要は無い」と怒りの声を上げるが、ごもっともである。しかし、裁判長が弁護側を認めることにより審理が進んでいくため、結果として登場する人物全ての評価が下がる最低のエピソードとなってしまった。この1話と4話に関しては、2話・3話・5話のクオリティでカバーができたというだけで、私は擁護をすることはできない。その他、2話に関しては、「無名スタッフの中に共犯者が居た可能性については一切議論されない」とか「本当に人を刺したのなら感触で分かるはずなのに、被告人がそれを証言しない」といった大きめの穴があるが、前述の1話・4話に比べれば崩壊というほどでもなく、むしろよく練られた出来の良い物語である。真犯人が、勝ち方にこだわったあげく負けてしまうのも、また悪役らしくて良かった。

 そんな感じで。前作『5』に引き続き、「逆転裁判6」も実に楽しみがいのある作品であった。
 …ということで。私は、現行の基本無料=ガチャで大量課金という集金システムがあまり好きではないため、このような
適正な金額で正当な対価を得る買い切り型のゲームについては、是非とも推していきたい。まあ、この逆転裁判シリーズに関しては、「初期作品の完全リメイクは一度も行われていない(=画質を上げた移植版は多数発売されているが、ドット絵風だったGBA当時とはかなり印象が異なる)」「PSハードでは1作たりとも発売されていない」という特徴があり、あまり新規ユーザーに優しいとは言えないのだが、3DSなら全シリーズが発売されており、中古店なら安く購入することもできるだろう。また、iPhone・Androidのアプリ版は、同じくシリーズ全作品が配信されているうえに、定期的にセールが行われているため、その際に買うと良いかもしれない。初期作は、画質こそ見劣りするが、その物語は今なお色褪せず、しっかり触れれば15年以上シリーズが続いている理由も分かるというものだろう。
 ――さて。前述の通り、この「逆転裁判」は、結果的にゲーム業界に様々な影響を与えてきたタイトルとなった。初期は推理ゲームのひな形として、その後の『4』は人気シリーズを一転して苦境に導いた反面教師として、そして今では
「ユーザーの不満に正面から向き合い、良作を出し続けたことで、地に落ちた評価を回復させた例」となった。この“大逆転劇”は、他のゲームにも波及してほしいものだな。

登録タグ/ ゲーム一般

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下の世代が潰れて死ぬまで、この悪習を続けますか?


 日本人は「勤勉」な民族とされている。これはまったく正しいことだろう。本日は、この
悪習をどうすれば取り除けるかについて考えてみよう。
 …まず、一般に、日本人の勤勉さは、「美徳」とされることが多い。例えば、政府・非政府の両面で、
「海外で活動をする日本人は、仕事熱心で尊敬されている」と言った類の言説はよく聞くものだ。だが、この手の「外人を使って日本人を上げる」というパターンは、わざわざ指摘するまでもなく、もはや完全に陳腐化してしまっており、私から言わせれば詐欺師の言動そのものである。そもそも、民族性などというものは、本質的に利点と欠点の両方を孕んでおり、慎重に取り扱っていかなければならない。そのことは、「民族主義ナショナリズム」という言葉から受ける印象を考えれば、一目瞭然であろう。
 ――さて、「日本人が勤勉である」という民族性の悪い面に関しては、
いま働いている皆さまが感じられている通りである。私はかつて、日本を素晴らしい国だと思っていた。確かに日本には、目を背けたくなるような差別や暴力は無く、自由な言論が認められており、社会基盤も整えられていて、経済的にも豊かである。ところが、その「平和」「豊かさ」と言った価値は、労働者の奴隷的貢献によってしか支えられていない。そのこと気付いて、私の中での評価は一変し、国家に対する信頼は底辺にまで失墜した。この国では、「個人としての幸せ」「余暇時間」などは全て二の次であり、「労働」こそが至高の理念と考えられている。搾取をして楽をするものなど誰も居らず、一般労働者から管理職まで全員が馬車馬のように働いている。進化した技術も、その全てが労働のために費やされる。まさしく、「奴隷の奴隷による奴隷のための国家」であり、「奴隷国家」と称するのが相応しい。

 そんなわけで。「高齢化」によって崩壊が始まった日本社会において、この労働環境の改善は急務であり、国会でも
「働き方改革」と題し、年明けから盛んな議論が行われている。しかし、私に言わせれば、そんなものは暇潰しの議論にしかなっておらず、皆さまも全く期待していないという方が大半であろう。恐らく、本当に皆の望む「改革」が行われる可能性など、クソゲーがアップデートで神ゲーになるくらいの確率しかあるまい。
 …これに関しては、
「プレミアムフライデー」と言ってしまえば十分であろう。当時、私もまだ普通に働いていたものだったが、実際に起こったことは、会話にその単語が出て、笑いものにされて、それで終わりであった。そもそも、この国の労働問題の背景に根ざしているのは、「仕事が多すぎること」「加えて、それに対する人員や予算が全く足りていないこと」であり、小手先で歪みを整えたように見せたところで、また別の場所に歪みが発生するだけである。もし、「働き方改革など不可能である」とアピールするために、このお触れを発したのならば、あまりにも悪趣味すぎるというものだ。
 ――だから、私が思うに、もし本当に政府が「働き方改革」をするつもりがあるのなら、
まずは通常国会を会期通りの150日で終えて、その後の延長も臨時国会・特別国会の招集も一切行わないようにするべきだ。当然、そうすると政治が遅れ、法律が成立しなくなり、関連する官公庁や企業の仕事もできなくなってしまうだろうが、それで良いのだ。決められた通常の時間で仕事が終わらないのならば、人や予算を増やすか、はたまた事業規模のほうを適正な範囲に縮小するしかあるまい。だから、それによって例えば国家の安全が脅かされたり、経済的豊かさが失われたりしても、仕方が無いことなのである。そして国会を皮切りに、官・民を問わず、全ての業界がこうするべきだ。労働者の奴隷的貢献によってしか成り立たない「豊かさ」など、何の豊かさでもなく、そういったものが回り回ってこの国を「貧しく」しているのだ。本当に「働き方改革」をしたいのならば、国会から定時上がりを実践してみろ。それができないのであれば、この議論も、「プレミアムフライデー」と同じく、謎空間に吸い込まれて終わるだけである。

 さらに。この国においては、
優れた人材に対して過酷な奴隷的労働を押し付け、その人物に対価も与えず使い潰すことが常態化している。要は、「仕事をするほど仕事が増える」ということであり、これは国家への貢献や労働意欲に関わる、極めて重大な問題である。やれ、私が育った時代は、「学歴」「年収」「恋愛経験の有無」などによって、「勝ち組」「負け組」などと人生の満足度を他人が勝手に判定するという恐ろしい習慣が存在したものだが、むしろ私に言わせれば、そこで「勝ち組」とされる者ほど、高い社会的責任によって苦しめられているようにすら感じるのである。
 …例えば、最近よく過酷な労働が取り沙汰される「教職員」「医師」は、人と関わる仕事であり、技術面はもちろんとして、精神面でも高いものが要求される。では、私たちは彼らへの十分な対価を与えていると言えるだろうか。
その答えは、彼らから聞こえる苦しみの声に耳を傾ければ十分であろう。例えば医師は、給料が極めて高いことで知られているが、彼らの就業するまでの努力に業務内容と必要技術を考えれば当然であり、むしろお金などもっと配ってやるべきである。「やりがい」とか「社会貢献」などといった詐欺師の言葉は、何の問題の解決にもならず、むしろ彼らをより苦しめる結果になるだけだ。
 ――さらに。私も、かつては上に挙げたものとは異なる職場で働いており、そこは「国民から誇りに思われている」などとよく言われる業界であった。だが、それが実際に働くうえでの意欲になっていたかというと、
答えはNOであり、実態のない不快な持ち上げにしか感じていなかった。なるほど、もし本当に「誇り」に思っているのであれば、例えば長い研修期間を終えて労働意欲に燃えていた者をたった2ヶ月で精神病に追い込んで退職させたり、結婚を間近にしてこれからの社会を支えていく者に何ヶ月も休みを与えず実家の両親に報告すらさせないといった恐ろしい労働環境を見て、何かがおかしいと感じるはずである。自分が「誇り」に思っている人間が、これほど厳しい労働を強いられているというのに、なぜ何の怒りの声も上げないのだ。「知らないから仕方ないだろう」と言い訳するかもしれないが、その程度も知らないくせに「誇り」などと言って持ち上げていたのか。だから、その“国民”が言う「誇りに思っている」など、思っているだけであり、その実態は道具として使い潰すうえでの都合の良い表現にしかなっていない。やれ、私はかつて、「人は戦場でも笑える(笑)などと子供じみた妄言を吐いたことがあったが、あえてその表現に乗るのならば、この国の労働環境は戦場よりも酷いということだ。法律も、従業員も守らないくせに、いったい何を守るというのだ?

 そんなわけで、この日本の将来を覆う空気は、もはや絶望的なものとなっている。日本社会は、あの人口比のグラフにように、どんどんと下が細くなっていき、やがて
下の者が支えきれなくなって、潰れることだろう。もう、どこかの段階で諦めて国を縮小するしか無いのである。
 …ちなみに、こういうことを言う私は、ひょっとすると「反社会的」と捉えられるかもしれない。実際のところ、私は今でも命を懸けてでもやるべき仕事はあると思っている。だが、
違法労働で生きがいを奪い、人を絶望に追い込むような犯罪組織のために懸ける命など、有るわけがない。それを国家が主導しているのならば、当然そこが黒幕であり、そんな悪党のために「死ぬ価値」「生きる価値」も無いというものである。
 ――というわけで。繰り返しになるが、少子高齢化によって、この国の維持が不可能となったことはもはや明白である。それを解決するために必要なことは、違法労働をエスカレートさせることではなく、国の規模を適正なものにまで落とすことである。平成の次の時代の子供たちに、奴隷国家の重荷を背負わせることがあってはならない。社会に貢献なんてしなくて良い。日本人の精神なんて継がなくて良い。身の丈にあった豊かさで、楽しく生きてくれ。

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