管理人の日記 / やり込み in FF

管理人の日記

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長くて虚無になるストーリーでした。もう日本ゲームの新作はしばらくいいです…


 PS4ソフトの
「ペルソナ5」をクリアしたので、その感想を書いてみようと思います。内容は、「過大評価」「長い」の2つに集約できます。
 …まず、「ペルソナ」シリーズは、アトラス開発のRPGであり、心の力である「ペルソナ」を用いた召喚獣バトルが展開される。特徴として、一般的な日本のファンタジーRPGと異なり、
現実世界を舞台としたうえで人の心の内面に踏み入った物語が展開され、その特異性もさることながら、2Dイラストを効果的に用いたスタイリッシュな演出や洋楽モチーフのBGMなども人気が高い。そして、今回扱う『5』は、ナンバリング5作目として2016年にPS3/PS4で発売された作品であり、日本ではパッケージ50万本以上、世界で200万本以上を売り上げたヒットタイトルだ。そのファンからの評価は凄まじいものであり、「2016年最高のゲーム」「JRPGで一番の出来」などと派手な持ち上げ方をされ、海外評価の参考となる”メタスコア”も93点と極めて高いものになっている。その他、中古価格は今なお5000円程度と高値を保っているほか、テレビアニメ版も現在放送中である。
 ――さて、私のほうの状況を言ってみると、私は数年前にPSvitaで「ペルソナ4:ザ・ゴールデン」をプレイしたことがあり、その当時も過大評価気味と思いながらも、楽しくプレイを終えることができた。そして今作は、『4』以来の正統続編であり、据え置きハードでの作品かつユーザー評価が極めて高いということを踏まえ、
『4 ゴールデン』を大幅に上回る大作RPGとしての出来を期待していた。主要な比較対象は、日本製の大作RPGということで、「ドラゴンクエスト11」「ファイナルファンタジー13」といったところである。

 そんな感じの、派手な期待をいだいてプレイした作品だったのだが、その最終的な評価は、「過大評価」「長い」という微妙なものにならざるを得なかった。まず、避けて通れないのは
物語面の話である。本作は平均的なクリア時間が80時間程度とされており、体感だがその半分程度はシナリオパートである。そのストーリーが、本作最大の問題点と言えるほどに崩壊しているのだ。
 …まず、「ペルソナ5」の導入部分について簡単に述べてみると、ある理由で転校生となった主人公が、体育教師の苛烈な体罰に巻き込まれ、その過程でペルソナ能力に目覚め、人の心に潜入して悪人を”改心”させるようになっていく…というものである。この冒頭に関しては、とりあえず大きな文句は無い。
 ――ところが、その”成功”に味をしめた主人公たちは、「心の怪盗団」を名乗り、世の中の”悪”をペルソナ能力によって一方的に裁いていくようになる。
ここから先の展開はあまりにも酷い。まず、”改心”とは言っているが、やっていることは「暴力による思考の改変」であり、私からしてみれば殺人と同程度の嫌悪感をいだかせるものである。しかも、物語冒頭以外は、「怪盗団」が有名になるための遊びをやっているかのような状況となり、その演出からは「相手の精神を崩壊させて社会的に抹殺することになる」「失敗すれば自分たちも死ぬかもしれない」という緊張感など全く感じさせない。そして、そんな主人公側をそれでも「正義」とするために、敵陣営は「こんな人間いるか?」というレベルの悪として描写されている。これならば、まだ現実世界の日本のほうがマシだ。物語におけるトリックスターとして活躍していた悪役たちも、ある一点を超えた瞬間に急速な小物化が始まり、どこにでも居るやられキャラになってしまう。そして最後は、唐突に「神」を名乗る存在が現れ、これまでの物語展開を全て茶番にしたうえで消滅する。何なんだこの物語は。

 そもそも本作のシナリオは、現実世界の日本を舞台とし、「怪盗」「警察」「探偵」などのキーワードを用いているにも関わらず、
細部が稚拙すぎるのだ。例えば、「主人公たち一行が、屋外でも平気で集合して『怪盗』『改心』と言ったキーワードを大声で喋る」「電話やインターネットなどで、特に伏せずに関連用語を使用する」「周りを警戒せず、人の集まる場所で堂々と異世界に突入する」と言った感じである。これらは全て、物語の進行に重大な影響を与えた要素である。とりわけ、物語の大きな山場となった「脱出トリック」は本当に酷いもので、警察組織を扱っていてあのずさんさは有り得ない。その直前のダンジョンがBGM・グラフィックなども含めて大きく盛り上がる出来だったことも含めて、全てが急転直下で台無しにされたものであった。
 …ちなみに本作では、現実世界の社会問題を扱っている印象も受ける。しかし、
物語全体の作りが粗雑なせいで、深刻な問いかけとしては全く聞こえてこない。例えば、ある事件では、いわゆる「ブラック企業」をテーマとしているが、皆さまご存じの通り、そういった会社が存在する背景には、「慢性的な資金不足・人材不足」「労働を美徳とする日本の価値観」「未だに経済大国の感を捨てられない国民意識」「農耕民族としての国民性」など様々な問題が関わってきており、容易に解決できるものではない。ところが、本作では「過酷な勤労を強いる経営者が悪い!」と決め付け、怪盗団の力によって”改心”をさせる。無理にそんなことをしても、もっと酷い考え方のナンバー2が台頭するかもしれないし、経営が傾けば失業者が出てくることはもちろん、従業員やその家族の人生が狂って自殺者も発生するかもしれない。それを、「怪盗団のせいだ」と言われた時に、果たして本作の主人公たちは胸を張って反論できるだろうか? そういった問題提起は、作中でも一応は為されないことも無いのだが、そのほとんどが投げっぱなしにされる。そもそも、人の心の欲望のみが顕在化した精神世界をわざわざ覗いておいて、それを一方的に断罪することは、果たして本当に「正義」なのだろうか。この問いですら有耶無耶にされて終わった。
 ――というわけで、本作の「現実世界が舞台」という設定は、完全に悪い方向に作用してしまっている。他の作品でも、例えば「魔王軍の司令官」を名乗る人物が全く司令をしていないなどという点が見られることはあるが、あちらはあくまでファンタジー世界であり、多少の現実感の無さは許容できてしまうものだ。逆に例えば、FF13の舞台が架空世界でなく日本で、聖府軍ではなく自衛隊、内閣総理大臣の正体は神の使いであり、その目的は人類を抹殺して神の世界への門を開くこと…というシナリオだったら
キチガイとしか思われないだろうが、だいたい『ペルソナ5』の世界設定がこのレベルである。

まさかこの人の割り込みが癖になってきた辺りがピークだったとは…


 というわけで、『ペルソナ5』のシナリオの「内容」の酷さは既に分かっていただいたと思うが、その虚無感を加速させているのが、
「長さ」である。
 …やれ、本作の標準的なプレイ時間は80時間と、一般的な大作RPGの約2倍と言える数値である。ところが、その時間の半分・
40時間ほどは、上記のようなストーリー語りに費やされる。その演出も、そのへんに居そうな高校生たちがタラタラ喋るというシーンが大半であり、本編の物語と関わらない無意味な場面も多い。この長さは、2分の1でも手ぬるい。4分の1に圧縮しろ。また、サブイベントと言えるコープ(キャラクター固有のミニシナリオ)も、左から入って右に抜けていくような会話が多い。しかも、それを進める中で、話し合いで解決できる問題であってもバトル=”改心”で何とかするような演出が目立つ。まさしく暴力による洗脳であり、ゲームの進行上は仕方がないと分かっていても、決して気持ちの良いものではないのだ。
 ――とはいえ、あえて擁護をするのなら、
現実世界の高校生など、この程度という感じなのかもしれない。確かに、現実の人間が「何の証拠も残さずに他人の思考を改ざんできる能力」を得たとしたら、本作のように身勝手な正義を掲げて、自己実現や承認欲求のために他人を裁いていく者が出てくるかもしれない。また、徹底して「無能と無責任の集合体」として描かれる一般大衆も、このネット世界の現状を俯瞰してみれば、大きく外れてはいないと言えるだろう。しかも、本作の主人公たちは、高校生とまだ幼いうえに、全員が何らかの社会的・精神的問題をかかえている。そういった未熟な者たちが超常の力を手にしたら、このような突拍子も無い行動に出ても、決しておかしくはないのかもしれない。そんな感じで、本作のシナリオには、一周回って奇妙なリアリティが存在するとも評価できるだろう。まあ、それがシナリオライターの狙いだったとは思えないのだが…。

 ちなみに、逆に良い点については、
グラフィックやBGM・戦闘システムなどが挙げられる。グラフィックは、大作クラスには遠く及ばないものの、世代相応に強化されており、3Dムービーやアニメシーンも効果的に使われている。BGMは、前作の『4 ゴールデン』と同じく、洋楽をモチーフとしたものであり、本作独自の雰囲気を作り上げるのに大きく貢献している。戦闘システムも、序盤は弱点属性を突いて転倒させれば勝ちだが、中盤以降は弱体・強化やバトンタッチを上手に組み合わせていく必要があり、いろいろと工夫して楽しむことができた。その他、ダンジョンが前作のようなランダムマップで無くなったのも大きな進化であり、特徴的なギミックとグラフィックを味わえた。ボスも、どれも戦闘面では個性的で、やりがいのある敵となっている。
 ――しかしながら、これらの良い点を全て挙げたとしても、
いいとこ「良作」止まりという印象である。戦闘については、相変わらず特に意味もなく主人公が死ぬとゲームオーバーであり、転倒による連続攻撃は敵も使えるため、全体魔法で弱点を突かれる味方が1人居ると著しく不利になる大縄跳びオフラインとなっている。その他、敵の全体物理攻撃が誰か1人にクリティカルして連続攻撃で終了、主人公に即死魔法がいきなり命中して全滅、などと理不尽な展開からリセットに繋がる状況が散見される。そもそも、シナリオほどではないとはいえダンジョン攻略も冗長ぎみであり、全滅して30分ほど戻されるだけでプレイ意欲に大きな影響を与えていた。また、グラフィックも、確かに前作に比べると強化されているとはいえ、PS4の「大作」として積極的に楽しめるほどではない。音楽に関しては手放しで称賛できるが、その演出が最も効いていたカジノからの大暴落を考えると、全体としてはどうだか…。

 というわけで。私の「ペルソナ5」の感想は、
「長い、シナリオ酷い。疲れた」という感じであり、PS4の大作を求めていた身としては完全に期待外れとなった。世間の熱狂的なまでの持ち上げは異様であり、過大評価と言わざるを得ない。せいぜい「中堅RPGとしては面白い」と言ったところか。
 …やれ、この高評価には、同じく2016年に発売された某つれぇゲームの影響もあるのだろうが、
あれより面白いことなど当たり前である。本作は、良いところだけを最大限に持ち上げてもせいぜい「良作」が限度で、全プレイ時間の半分は「頭の悪い『DEATH NOTE』」といった趣の物語に費やされる。私のプレイ時間は75時間であったが、他の大作を2〜3本はクリアできる時間を消費してこれでは、ちょっと悲しいというものだ。それと同時に、このクラスのゲームすらビッグタイトルとして持ち上げなければならなくなった日本のゲーム業界自体にも、もう諦めに近いものを感じてしまった。何だろう、「ネットが正義!」とか言いそうな10代後半から20代前半くらいまでの層にとっては、こういうシナリオが刺さるのだろうか…?
 ――総合して、この「ペルソナ5」は、私にとって残念な出来であり、プレイ時間と期待に比する満足度は得られなかった。もし、何年後かに続編が出て、それが如何に高評価を得てたとしても、もはや興味をそそられることは無いだろう。もう、日本のゲームはいいです…。

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最高の戦いぶりでした。ただ、それでさえ勝てなかったというのも事実です


 今朝早く、サッカー・ロシアW杯での日本の戦いが終わった。途中、優勝候補の一角であるベルギー相手に2-0まで突き放した時には、誰もが「ひょっとすると行けるのではないだろうか」と期待したが、そこから相手が驚異的な勝負強さを発揮し、終わってみたら
2-3で負けていた。ラスト1分、入っていてもおかしくない本田のフリーキックが相手キーパーの好セーブに阻まれ、逆にカウンターで勝ち越し点を決められてしまい、そのまま長い笛が吹いたことは、まさにこの試合全体を総括する出来事であったように思う。
 …ということで。今回の2018年サッカー・ロシアW杯を、私は19日の第1試合から全て視聴をしてきた。日本代表チームの下馬評というと、
「3連敗」という意見が圧倒的だったが、まあ世界ランキングだけで決まるなら試合をする必要は無い、勝負なのだからやるまで分からないというものであり、せっかくこういうお祭りなのだから、自分の国くらいまっさらな気持ちで応援をしたいと考えていたのである。
 ――その結果、1戦目のコロンビアには2-1で勝ち、2戦目のセネガル戦は2-2で引き分け、3戦目のポーランド戦は0-1で敗北するも決勝進出、そして本日朝早くのノックアウトステージ第1戦は2-3で敗北という成果になった。日本代表チームとしての成績は、2002年・2010年大会と同じく、「ベスト16」で終わりである。ただ、これら4試合の成果は素晴らしいものであり、単純に戦いとして見応えがあったのはもちろん、
今後の日本代表チームが「どのような強さ」を目指すべきかということを考えさせられるような場面もあった。というわけで、本日は、日本代表選手の素晴らしい戦いを称えると共に、その1試合ごとの感想を、未だ興奮冷めやまぬ中で書いてみたいと思う。



 
第1戦 vsコロンビア 2-1 / 6月19日(火)21:00(※時刻は全て日本時間・試合開始時刻)
 前回2014年大会で完敗したコロンビアとの戦いは、開始直後に相手ハンドからのPKで先制、その後にかなり厳しい判定で与えられたフリーキックから追いつかれるも、個人技の光る素晴らしいゴールで再び勝ち越し、そのまま10人のコロンビア相手に逃げ切りに成功をした。4年前の雪辱は、これで完璧に晴らすことができたと言えよう。
 選手個人の身体能力はもちろんだが、それ以上にズル賢く審判を欺こうとする南米流のサッカーは、日本が参考にすべき手段の一つかもしれない。

 
第2戦 vsセネガル 2-2 / 6月24日(日)24:00(25日[月] 00:00)
 フィジカルで大幅に勝るアフリカ国家との戦いは、力と力のぶつかり合いとなった。序盤は空中戦でボールを奪われる展開が多かったものの、中盤以降はそれも持ち直し、二度先制されるも追いつけたのは素晴らしかった。特に、選手交代で流れを変えられたことは、非常に良かったように思う。
 正々堂々とぶつかり合いをし、そして勝利をする体力は、日本選手に必要なものだろう。

 
第3戦 vsポーランド 0-1 / 6月28日(木) 23:00
 予選ではランキング最上位であったポーランドとの戦いは、多くの考えさせられる課題が得られた。前半こそ互角と言って良い戦いができていたものの、後半に先制点を決められてからは、
交代カードを2枚切ったにも関わらず、これと言ったチャンスを作ることができない試合展開が続いた。そして最後の10分ほどは、今大会から導入された「フェアプレーポイント」での決勝進出を頼りに、0-1で負けているのにバックパスで時間潰しをする日本と、既に敗退が決まっているためそれに同調するポーランド…という世にも奇妙な試合が展開される始末であった。
 …さて、この試合に関しては、皆さまご存じの通り賛否両論となった
(まあ、いつもの”外野”さんたちも大勢訪れたのだが…)が、ルールに関して言えばこのような取り決めを定めたFIFAが考えるべきことであり、日本チームに対してはむしろ先制点を決められてからの情けない20分間のほうを非難するべきであろう。正直、全く点が入る気がしなかった。結果的に、あの時間潰しは成功して、日本は決勝トーナメントに進むことができた。逆に、正攻法で戦いを挑んでいっても、自力進出条件である引き分けにたどり着ける確率は極小であり、追加点を決められて敗退していた恐れが高かったように思う。
 ――さて。この試合は、結果的に
「日本サッカーがどのような”勝ち”にこだわっていくか」という点について、重要な問題提起ができたように思う。つまり、「ルールの悪用」と誹りを受けても結果だけを求めに行くか、それとも目の前の試合に真っ向勝負を挑んで「玉砕」するか、ということだ。

 
第4戦 vsベルギー 2-3 / 7月3日(火) 03:00
 そして本日の試合は、皆さまご存じの通りである。前半は、まさしく「強い国」「弱い国」の戦いという様相であったが、決死の覚悟で挑んでいった日本DFたちによって何とか無失点に抑えることができた。そして、後半の早い時間帯で、まさかの日本が2点先取という展開になったが、試合の終盤になってベルギーが怒涛の攻めを展開し、あっという間に2点の差を詰められてしまった。そして後半終了間際、誰もが延長戦を予期していた時に、本田の100点満点に近いフリーキックが跳ね返され、逆にコーナーキックのミスからのカウンターで最後の失点をし、そのまま試合が終了してしまった。
 …さて、この試合の内容は、確かに「世界ランキング3位の強敵に、日本が素晴らしい一撃を加えた」と評価できるものであった。しかし、
日本が全身全霊をもって挑んだとしても、やはり屈指の強豪国には勝つことができなかったのである。日本チームは運にも恵まれていたし、審判も公平どころか日本有利な判定が多かったくらいであり、選手たちにも大きなミスは無かった。それでも、相手チームが総合的な力で上回り、最終的な勝利を掴んだのである。純粋な白人に加えて黒人から侍のような風貌の選手まで揃えたベルギー代表は、個人でも組織でも優れており、後半2点ビハインドという圧倒的不利を覆すだけのプレーをした。全てを出し尽くした日本が負けるに相応しい、素晴らしいチームだった。
 ――さて、このような敵に日本チームが勝つには、体力や作戦はもちろん、練習環境から思想に至るまであらゆる点を磨くしか無い。この負けは総合力の敗北だからである。だが、悲観的になりすぎるの必要も無い。
今できる全力を出し尽くしたからこそ、このような課題を発見できたのだ。この差は簡単に埋められるものではないが、しかし絶対に埋められないものでもない。敗退はしたが、今後への期待も持てる内容だったように思う。



 というわけで、今回のW杯における日本の挑戦は終わってしまったが、言うまでもなく
これで日本サッカー自体が終わるわけではない。これら4試合の分析は既に始まっており、それを活かす形で今後の日本サッカーは発展していくはずだ。そして、この戦いに感化された少年少女たちは、次の世代の日本チームを支えていってくれるし、そうでなくともこの戦いをきっかけに様々なスポーツに興味を持つ人も多いだろう。それはきっと、これからの日本を豊かにするにあたって、非常に重要なことである。運動競技は、やるのも見るのも楽しいものだ。
 ――そして、いち視聴者の目線としては、非常に見応えのある4試合を提供していただき、関係各位に感謝するしかないというものである。コロンビア・セネガル・ポーランド・ベルギー…これらのどの国も、それぞれの特色を活かした
最高のライバルであった。このような国々と戦えたことを「誇りに思う」…と表現してしまうと仰々しすぎか。言い方を変えよう。素晴らしい強敵ともと出会えて良かった。みんなありがとう。

登録タグ/ サッカー

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なんか代表選手も高齢化してない?


 私が、サッカー日本代表の試合を見る際、必ず習慣づけていることがある。それは、
「国歌斉唱をしている日本選手の口を見ないこと」だ。
 …さて、ご存じの通り、サッカーの国際試合を行う際は、必ず「国歌斉唱」をするという取り決めがある
(正しくは「国歌演奏」)。両国の選手が並んで歌うといった一般的な形から、歌手や合唱団を呼んだりする無回転球、その他にも演奏のみを流す国歌などもある。普段あまり耳にしない「他国の国歌」が聴けるという国際色豊かな側面から、試合直前にあえて集中する時間を作ることで緊張と期待をピークに持っていけることなど、この「国歌斉唱」は、サッカーの国際試合に無くてはならないものとなっているのだ。
 ――それでも、
私は絶対に、「君が代」が流れる際に、日本代表選手の口を見ないようにしている。これは、最近になって始めたのではなく、かなり前から行っている。外国選手の国歌の時は普通に画面を見るが、「君が代」が始まったら席を立つか目を逸らす。とにかく、関わり合いになりたくないのだ。

 それでは、なぜ私はそんなことを行うのか。その理由は、
「『愛国心』というつまらない議論に選手を巻き込みたくないから」である。
 …というのも。ひと昔前
(今も?)に、「日本の選手は国歌斉唱で『君が代』を歌わない」という議論が流行した。いわく、他国(どの国?)の選手は大声で歌っているのに、日本選手だけは口をつぐんだり、目を閉じたままにしている。これは”愛国心”が無い、反日的だ…という内容である。実際に、日本チームでは国歌について特に統制した行動は取られていないようで、様々な歌い方をしている者が居る。そこから、国歌斉唱の時に選手の口を見て、「この選手は模範的だ」「この選手は反日だ」などと判定するという、不愉快極まりない「踏み絵」が始まったのである。
 ――しかしながら。私はサッカーが見たいのであって、愛国心を叩き棒にした汚い罵り合いに関わりたいわけではない。そのため私は、
「国歌斉唱の時だけ、日本選手から目を離す」という行動を取るようになったのである。これは選手が悪いわけではなく、もちろん「君が代」や日本の国家システム自体に直接の原因が有るわけでもない。100%、つまらない罵倒をしあっている外野に責任がある。本来は純粋にサッカー競技を楽しむべきが、人間はどうしても他者の否定・レッテル・自己肯定といった貧弱な精神構造から逃れられず、このネット上はそういう言説に溢れている。だが、私個人はせめてそんな汚物を現場の選手になすりつけたくないと思う。だからこそ、私は誰に言われるでもなく、国歌の斉唱から目を逸らすようになったのである。

 そんなわけで。
本日21時00分から、いよいよロシアW杯の日本代表の初試合が始まる。1時間半も前から予告番組を行うといういつも以上の大フライングだが、モスクワと6時間の時差(日本が進んでいる)にも関わらず、日本人が視聴をしやすい時間に取ってくれたことは評価するべきだろう。オリンピックに並ぶスポーツの大イベントということで、一般視聴者にとって大きな娯楽になることはもちろん、社会的な影響も大きいはずだ。
 …それでも、私は「君が代」を歌っている日本選手の顔だけは、絶対に見ないことにしている。その理由は、上記の通り、
愛国的だのどうだのといった幼稚な議論にサッカーを巻き込みたくないからだ。サッカーは教育現場ではなく、国家事業とも関係がないのだ。
 ――そもそも、もっと根本的な話を言うと、
代表選手は「日本」という看板を背負って外国チームと戦ってくれる時点で、この上なく愛国的である。そこに、つまらない精神論で水をさしてしまうのは、実にもったいないというものだ。サッカー選手なのだから、もし何か批判するのならば、その競技面での内容に限れば良い。精神性がどうこうといった空中戦は、外野が外野でやってくれ。

登録タグ/ 社会一般

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椅子に座ってポーズとか絶対取らなさそう


 米E3で先日、既に発表されていた
「バイオハザード2」完全リメイク版の続報が公開された。発売日は2019年1月25日、今から約7ヶ月後である。
 …やれ、初めて「バイオハザード2」がリメイクされるとの情報が流れたのは2015年8月であり、そこから昨日まで全くアナウンスが無かったことから、界隈では既に記憶が薄れつつあったのだが、ここでこうして7ヶ月後の発売を告知できるということは、当たり前であるが
裏でちゃんと作っていたということであろう。開発開始から3〜4年というのは、現在のハイエンドゲームとしては標準的な期間である。ちなみに、リメイク版の正式名称は「バイオハザードRE:2」で、対応ハードはPS4&XboxOneにSteam(PC)ということだ。2017年1月の「バイオハザード7」、2018年1月の「モンスターハンターワールド」、そして2019年1月のバイオ2リメイクということで、毎年1月はカプコンの月という扱いなのかもしれない。
 ――いっぽう、まだ諦めきれない元ファンたちの間で密かに期待されていた
FF7リメイクは、今年も何の情報も無かった。かくいう私も、これまで「3年近く経過してまともな情報が無い」と馬鹿にし続けてきたが、これは「3年が経つのだからせめてムービーの1つくらいは出してほしい」という期待の裏返しである。やれ、私の個人的な印象として、まともなゲームプレイ映像が出てから完成までには更に3年は掛かると踏んでいるので、その法則で行くと、発売は最低でも3年後・2021年以降ということになる。まあ、妥当な予想と言えるのではないだろうか?

 さて。このバイオ2リメイクと某7リメイクには、ちょっとした因縁がある。まず、皆さまご存知のように、
どちらも原作は初代PSで大ヒットした作品である。「バイオハザード2」は1998年1月に、「ファイナルファンタジー7」は1997年1月に、それぞれオリジナル版が発売された。
 …しかし。その他にも、2015年6月にリメイク決定の報が流された某7に対し、
負けじとバイオ2のほうも同年8月にリメイクの情報を流した。ところが、某7リメイクが米E3という大イベントで狂喜的に受け入れられたのに対し、バイオ2はネットでこっそり情報が流されただけである。しかも、当時最新作であった「バイオハザード6」の評価も厳しいものであったため、バイオ2のリメイク発表は「7リメイクに便乗」などと嘲笑されていたものだった。
 ――まあ、2015年当時のカプコンは、極めて身も蓋もない言い方をすると
3DSにしょぼいモンハンを出して金を巻き上げる拝金主義者という印象であったため、前述のような冷ややかな目で見つめられるのは仕方なかったのかもしれない。もっとも、今から振り返ってみると、この時期から既にPS4タイトルに向けた研究と投資を始めていたと思われる。そうでなければ、近年になってこれほど安定して作品を出し続けられるわけがない。やれ、こうして1年ペースでPS4向け大作を出しつつ、他のジャンル・他のハードも幅広くカバーするカプコンは、今では日本一のソフトメーカーと言えるだろう。

 そんなわけで。2015年に初めて「バイオハザード2」のリメイク版が発表された時には、某7の流れにタダ乗りと馬鹿にされていたが、その発売も来年1月と無事に決定された。そして逆に、今度は某7リメイクのほうが、発表3年
以上が経っても何の情報も無く、笑いものにされる存在となってしまった。
 …まったく。私としては、既に某15に関しては見限ったのだが、FFシリーズ全体に関する期待はまだ完全には捨てきれていない。今でも、心機一転『FF16』が出て、かつてのような業界最先端の品質は出せないとしても、優れた演出や凝ったシステムで、本気の「やり込み」ができるような作品に仕上がってくれることを望んでいる。だが、現実はどうだ。
たかがリメイクごときにこれだけの時間を喰っている。しかも、手間が掛かっても良いものが出せるのならばまだマシなのだが、現実には発売が遅れたうえに最悪のクオリティになるという可能性が濃厚である。さらにさらに、それが三部作の中のたった一作目なのだと言うから驚きだ。どうやったらここまで貧弱な組織にできるのかと、逆に訊きたいものである。
 ――というわけで。FFシリーズを囲む状況は、全く変わっていない。自称最新作の某15は論外、某7リメイクは3年経って音沙汰なし、ナンバリング続編の『16』に関しては影も形も全く無い。むしろ、
時間だけが過ぎて状況は更に悪くなったと言えよう。ユーザーも制作側も、日本メーカーが最先端を歩んでいた時代の成功体験を捨てられないままここに来た結果、どうにもならなくなってしまった。まるでゲーム制作のみならず、日本社会の没落の典型例を見ているような感じである。さて、ここからFFが立ち直るには、身の丈にあったレベルの作品を出し続けるしかないが…まあ、望み薄というか、無理だろう。

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今日の話を書こうと思ったとき、すぐこのセリフを思い出した


 かつて、『3』までのプレイステーションを作った久夛良木くたらぎ氏は、1999年に
「ゲーム機の最大のライバルは携帯電話だ。何故なら、人間の最大の娯楽はコミュニケーションだからだ」と語っていたという。また、同じ時期に任天堂の元社長も、「携帯電話が進歩すれば、携帯ゲーム機などは不要になる」と話していた。これらの発言は、「@携帯電話の処理性能がゲーム専用機を上回る」という点以外に、「A通信機能を使った人と人との交流の面白さが、ゲームソフトを上回る」という考えを前提としたものであろう。それでは、果たして現実はどうなのだろうか?
 …まず、@の
現行の携帯電話の処理性能は、既存のゲーム専用携帯機を大きく上回り、少なくとも性能面においては、「携帯ゲーム機などは不要になる」という予言は的中したと言えよう。物理ボタンなどの存在から、完全に携帯電話がゲーム専用機の上位互換とは言えないものの、もはや市場としての魅力は雲泥の差であり、アウトプットされるゲームの質も専用機のほうが下回るという本末転倒な感じになっている。だから、今後もしプレイステーションの次世代携帯機が出るとしても、据え置き機か携帯電話のコバンザメのような存在になるしか無いであろう。
 ――しかしながら。Aの、
「人間同士のコミュニケーションが最大の娯楽であるから、携帯ゲーム機は時代遅れである」という考えには、議論の余地がある。もちろんこれに関しても、現在の社会において、電車で・歩きながら・授業中にも忙しく携帯電話を触っている人のことを考えると、的中していると言えるかもしれない。だが、私の考えを述べると、「人間同士の不快で面倒なコミュニケーションよりも、作品性の高いゲームソフトのほうが遥かに娯楽として優れている」と思うのである。これはもちろん、ゲームに限った話では無く、映画でも本でも同じだ。それでは何故、もう20年近くもインターネット世界で生きてきた私が、このような考えに突然至ったのだろうか?

 まず。ここ最近の私は、
人と関わることに疲れ果ててしまった。去年に仕事を辞める前後から精神的に不安定な状態が続いており、特に「人と人との争い」を見るのに極めて強い嫌悪感を覚えるようになった。例えば、以前は好んでテレビのニュースなどを見ていたが、やがて不快な情報しか流れて来ないことに気付き、意図して避けるようになった。また、少し前までは好んで見ていた、いわゆる「まとめサイト」「ネット掲示板」なども、最初は自分と同意見の人が多くて心が落ち着くような思いがしたものの、その仲違いから垣間見える心の汚さや、話題性を作るためにわざと不快感を煽る内容に嫌気が差し、綺麗さっぱり見ないようにした。特に、いわゆる「ゲハ」と「政治」は、徹底的に排除している。これにより、余暇時間でわざわざ自分から不快になることが無くなり、かなり心が安定するようになった。
 …そして、代わりに私の生活に登場をしたのが、オフラインのゲーム・映画・本と言った、
他人と関わらなくて良い娯楽である。特に、「本」に関しては、「ゲームや携帯電話は低俗だが本は高尚である」といった差別的な見方が未だに多くされているが、良くも悪くもメディアの一種であり、私にとっては遊びの一つである。具体的なメリットとしては、古本屋を使えば1冊108円で購入ができ、電気や設備など他の物を使わずに楽しめ、内容も多彩である。こういった、時代遅れのレトロなテクノロジーが、信頼性が高く現代でも通用するという事態は、往々にして起こりうるものだ。

 しかしながら。オフラインゲーム・映画・本にも、必ず製作者というものが存在し、一定の思想の元に作られていることが大半である。ならば、それらの作家性の高い作品を味わうことは、いわば「作家とのコミュニケーション」、つまり人間関係の一つと表現できるかもしれない。しかしながら、いわゆる「まとめサイト」やネット掲示板での有象無象との交流は私に不快感をいだかせ、作家とのコミュニケーションは喜びをもたらす。これらの本質的な差は、恐らくは
「コミュニケーションをする相手の思想が、自分と合っているかどうか」という点に集約できるであろう。
 …やれ、この「コミュニケーション相手の思想」とは、もっと端的な表現をすると
「知的水準」と言っても良いかもしれないが、そうなるとまた「高学歴=高尚」「低学歴=下劣」などという無用な争いに巻き込まれるため、それをあえて「思想」と表記することにする。そして、求める「思想」が、例えば人によっては知的好奇心だったり、人によっては本能的な感情だったりする。なお、ここでは必ずしも「知的=善」「本能=悪」という位置付けにはしないことを触れておきたい。そういう下賤な区分による自己肯定は、私の最も嫌いとするところだ。
 ――よって、これらの事実から、
私の趣向のみについて判断をしてみると、例えばオフラインゲームや映画・本であったとしても、下劣な感情を煽るような低品質の作品では全く意味がない(もっとも、商業作品ではそういうものは落とされるのが大半であるが…)。また、仮にプロで無い一般人同士の交流であっても、興味深い内容について取り扱えるのであれば、直接の会話でもインターネットでも大歓迎である。このホームページも、どちらかと言えば大勢の人が集まる場所というよりは、作家性の高い場所であると言えるだろう。これは、「管理人が作家として優れているか否か」という話ではなく、「個人の思想が色濃く反映され、それを共有できる人との間で楽しむページ」という意味である。

 そういうわけで。まとめると、私はかつて予言されたように「コミュニケーションが人間の最大の娯楽になる」とは思っていない。もちろん、本質的には、人類の娯楽は全て他者との交流であろう。しかし、社会やネットワークを介した不特定多数には、様々な思想の人間がごちゃまぜになっており、自分と異なる思想の人が大多数である。そういった者にわざわざ関わり、自分から疲れにいく必要は無いだろう。だから私は、
コミュニケーションを極限まで縮小し、自分と思想の合うほんの一部の人とのみ付き合うことにしたのである。その顕現が、私にとっては「テレビやインターネットやSNSでの罵り合いを避け、オフラインゲーム・本・映画といった作家性の高い作品を楽しむ」という手段になったのだ。
 …やれ、私は去年、精神的に不安定になって臨床心理士の世話になっていたとき、「アドラー心理学」というものを勧められたことがある。その内容は、
「全ての悩みは人間関係である」という言葉に集約できる。その通りである。コミュニケーションは素晴らしい娯楽となりうるが、それ以上に悩みの種になりやすく、現実には人間関係を過剰摂取オーバードーズしている人がほとんどだ。実際に、私はネットでも現実でも人との関わりをできる限り少なくしてみたが、驚くほどに心が軽くなり、逆に困ったことや苦しむようなことは全く発生しなかった。もちろん、このような後ろ向きの考えは、社会全体にとっては悪影響である。若者が社会問題を自分のものとして捉え、選挙に行ったり、解決のための努力をしなければ、この国の滅びは加速するばかりだ。しかし、そのためにわざわざニュースを見て、下劣な罵り合いで年がら年中不愉快になる義理は存在するのだろうか。私は、この国にそれほどの恩義は感じていないのだ。
 ――やれ。世間は平成も終わる時代になり、「携帯電話」という人間の可能性そのものすら進化させうる機器が登場した。それにも関わらず、人は未だに原始的な感情から来る争いに終始している。恐らく、どれほど電子機器が進歩しても、この傾向は変化しないだろう。私は、そういうものは、もうたくさんだ。21世紀のこの世の娯楽は、旧世代のオフラインゲームや本・映画に逆戻りした。しかしながら、
意外にもそんな毎日は凄く楽しいのだ。だから、「コミュニケーション」に疲れ果てている人は、いったんそれを捨ててみてはいかがだろうか?

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