福岡県の思い出 / やり込み in FF

管理人の日記
最後の学生時代と言える一年でした。

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仕事は本当に辛かったけど、皆さまに会えなくなってしまうことのほうが寂しいです


 世間一般の転勤の時期とは少々異なるが、我が社にも異動の時が訪れた。次なる勤務地は、華の大都会・大阪である。というわけで、その前に今まで勤務してきた福岡県の思い出を語ってみることにしよう。
 …やれ。実は、俺は当サイトの日記において、これまで居住地を「福岡県」と断言したことは無かった。また、忙しい毎日のお供となっていた【Twitterアカウント】においても、去年4月の熊本地震の際に「かなり揺れた」と述べるくらいであり、ハッキリと明言はしていなかった。そのため、俺がこの一年住んでいた場所については、まったく知らなかったという人も多いことだろう。まあ、そもそも今回は、俺自身が仕事について語るつもりがなかったので…。
 ――とはいえ。転勤を前にして、そろそろこの一年間についてまとめておかなければならない。何故なら、この一年は、俺の人生にとって非常に大きな転換点となったからである。それについて書くことは、今後このサイトが更に10年20年と続くにあたっても、大きな資料となることであろう。今月末には、この福岡の地を離れなければならない。激しい戦火の記憶も、いつかは薄れて消えてしまう。だからこそ、せめて俺だけは、こうして文字に書いておこうと思ったのだ。

 そんなこんなで。昨年3月から今年1月まで続いた、新会社の評価を述べてみると…それは、「俺の人生最後の学生時代」というものである。この戦いは、俺の仕事に関する考え方はもちろんとして、思想・信条・性格・趣味・学問・友人・恋愛・人生・体力・精神など、ありとあらゆる要素を詰め込んだ、まさしく“総力戦”となったのだ。皆さま知っての通り、俺はもう28歳であり、もう正攻法で若いと断言できる年齢では無い。そんな俺が、このように自分の外面内面に関わる全ての面で、大きな刺激を受けることができたのだ。それはまさしく、「学生時代」「青春」とでも形容するしか無い。とりわけ、高校・大学時代にまともな道を歩んでこなかった俺にとって、その意味は極めて大きなものなのである。
 …まったく。これまでの俺の人生を少し振り返ってみると、鳴り物入りで名門大学に入学をしたまでは良かったが、そこでは自分のやりたいことを見つけられず、ただただ親のお金を使って堕落の限りを尽くしていた【2016/2/19】。そんなだから、結局2回もの留年を繰り返し、最後の就職でさえなかなか決めることができなかった。当時の俺は、そのことに対して、( ^o^)「自分を求めてくれる人なんて誰もいない!」と、自責の念を感じていたものだったのだ。
 ――さて。俺は、結局ギリギリのところで就職を決め、2013年4月に初就職をしたのであるが、そこは有り体に言ってしまえば高校卒業者が入るような職場であり、名門中の名門大学の自分が参加するような場所ではなかった。事実、そのことはあらゆる面から批判され、時には嘲笑の対象とされたものだった。それは、会社内部からの目も同じであり、俺自身も何度もそのような珍獣を見学するかのような視線に苦しめられたものである。だが、俺はその会社の、意外にも仕事とプライベートを分けてくれる姿勢に大きく惚れ込み、結局のところ転職が決まる最後の時まで、3年間勤務を続けてしまった。それは、当時の同僚・上司が、特に偉大だったという面もあるのかもしれない。今でも、その当時勤務していた新潟は、出身地の三重に次ぐ第二の故郷だと思っているくらいである。当サイト的にも、2014年から連載しているFF13企画の口火を切ることができるなど、大きな意義をもたらした。そこでは、「趣味と仕事の両立」「安定した給与と生活体制の確立」など、満たされた生活を送ることができていたのである。もし、当時の職場に戻れるのであれば、俺は明日からでもかつてのような毎日を取り戻すことができるであろう。そんな俺の新潟勤務は、「故郷」「母校」とでも称するべき、懐かしい時代なのである。

 そんな感じであったが。俺はいろいろあって転職を決め、2016年3月末に、この福岡の地へとやってきた。当時は、恵まれた新潟時代からの変化に大きなストレスを感じ、「辞めたい」「新潟に帰りたい」と思ったことも二度や三度ではなかった。それは特に、新会社の勤務体系が社員の勤務時間外での自浄努力を強要していたことにも由来するだろう。やれ、今回の同期は大卒が中心であり、その多くは20代前半という年齢である。そこに、就活バツイチである27歳(当時)の俺が入り込むのであるから、その違和感は相当なものであったはずだ。
 …しかしながら、そんな環境にも俺は少しずつ慣れていき、5月になるころには、もはやそこで最後までやりきってやろうという精神が生まれていた。俺はそんな職場にも、少しずつ慣れていくことができた。まあ、今回の職場は特に初期において極めて大味であったし、無理な要求を突き付ける上層部に対して、反発しながら何とか業務を分担して立ち向かわなければならないという側面もあったのかもしれない。何はともあれ、そんな感じで我々は、忙しい毎日に悩殺をされながらも、何とか各種の業務を終わらせることができ、その過程で少しずつ仲良くなることもできた。そのピークは、間違いなく昨年10月に行われた100キロ(謎)であろう。俺を含むほぼ全ての人にとって、人生最大かつ筆舌に尽くしがたい苦難になったであろうが、我々は全ての任務をやり遂げたのだ。それがもし、同じ部署の人々と不仲であったのであれば、間違いなく最後までやり遂げることはできなかっただろう。まるで戦争映画のような軽口を飛ばしあうことで、極限の状態においても、我々は何とかやり遂げることができたのである。まあ、あの100キロ(謎)よりも苦しい状況というものは、今後の人生において恐らくは有るまい。そういう意味では、上層部の策略に、まんまと乗せられてしまったということなのかな。
 ――ところで。俺個人のことを言うと。実は、少しばかり年下の、同じ職場の少女に心を奪われていた。その方とは、同じ職務区分で隣り合ったのが始まりだったのだが、いろいろあって、自分だけのあだ名で呼ぶような仲になることができた。あの100キロ(謎)の時には、疲労がピークに達してカラカラになっていた状態で、大事な大事な大事な水を満杯わけてくれたし、日々の業務に関しても、悩殺されて不満が爆発し取り乱していた俺に対して、「あなたには笑っていてほしい」という、今でも忘れられない言葉を掛けてくれたりもした。その他にも、「何が始まるんです?」と言えば「第三次大戦だ」と応えてくれたし、力が足りず苦しんでいる者に対して慈しみの心を持つような、とても心優しい少女であった。…まあ、その恋心の結末に関してはと言うと、それこそまさしく“学生時代”らしい有り触れた最後を迎えるに至ったのであるが、俺としてはやれることを全てやりつくしたため、後悔はしていないものだ。もし、ここを読んでくださっているのであれば、まあ…うん! またいつか、一緒に働けるといいね。

 そんなわけで。この一年間で、一つ確かめられたことがある。それは、人は戦場でだって笑えるということだ。どれだけ苦しい状況に陥ったとしても、その職場の人と仲が良ければ、それこそ命に関わるような状況においてでさえもカバーができてしまう。それを、このたった一年で醸成できた今回の状況は、特筆すべきものなのだ。そしてそれは、転勤をしたとしても、今後とも堅持していかなければならない姿勢なのである。
 ――さて。色々と語ってしまったりしたが。次の任地は大阪である。実家の三重県に近い場所であるという希望はあるが、その職務内容や土地柄に対しては、未だに不安の面が大きい。しかしながら、この福岡時代に知り合った人々のことを思い返せば、そんな不満はどうにでもなってしまうのというものである。就寝時間ギリギリまで作業をさせられる以上の時間的拘束は無いし、汚泥に潰れた足で何十時間も歩き続けさせられるような苦痛を味わうことも、もはや存在しない。そして、同期の人々とは、勤務地は違うが、同じ全国区の会社で勤めているということには変わりはないのである。さあ、戦いはこれからだ。この福岡時代、皆さまと出会えて、本当に良かった。

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2017年1月21日の記事を表示しています。


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